大学の授業で発表したトマスモアのことについてです。
結構長いので「モア!!」という人読んでみてください。
なかなかかっこいい人物でございますぞ。


Sir Thomas more について。

             
私はこの授業での発表のテーマにトマスモアを選び、彼について調べました。きっかけは世界史の資料をみていて、受験時代に興味を持ったからです。あと、我が命つきるともという映画を、これも受験の時勉強になると…と思って見た事です。自分の信仰のために命を捨てる人物、トマスモア。実際世界史用語集には"イギリスの政治家で人文学者。エラスムスと親交を持つ。代表作ユートピア。熱心なカトリック信者で、ヘンリ8世の離婚、国王が国教会の首長となることを反対したため処刑された"と載っています。

彼は多くの本や映画等に取り上げられていますし、ユートピアと言う彼の作った言葉は現在普通に理想郷と言う意味を持ち使われています。
「トマスモアの大冒険」という、SF小説があるのですが、その内容は荒れてしまった未来世界を救うために過去から救世主を連れてきて…と言った内容なのですが、その人物としてトマスモアが…という話まであるほどです。

では、トマスモアとは一体どんな人物で、どのような考えを持っていたのか。そしてその時代背景と、ユートピアについて考えてみたいと思い、彼をテーマに選びました。

最初に彼の人物像を追って行きたいと思います。彼はどのような生涯を送ったか見ていきたいと思います。彼は1477年2月6日(生年月日についてはいくつか説があり、1478年とも言われています)ロンドンのミルクストリートに生まれました。彼自身の言葉によると、「名門ではないが名誉ある家柄」に。
そしてセントアンソニー校でラテン語の基礎を学んだと言われています。
12歳の頃彼はカンタベリーの大司教であるジョンモートンの家に小姓として見習い奉公に行っています。このモートンは、ユートピアの中でも立派な人物であるとモアの口から語られています

当時良家のイギリスの子供は、小さい頃よその家に見習い奉公に行く事は珍しい事ではなかったようです。モアは小さい頃より即興で演劇に参加したり、ユーモアのある賢い子供だったそうです。モートンは少年モアを「この少年は今に必ず驚くべき存在になる」と言っていたようです。その後オクスフォード大学に入学するものの、父の意向で退学し法律家になるためにニュー法学院の学生となります、
その後彼の人生においてかかせない人物、デシリウスエラスムスに出会う事になります。エラスムスについてはまた後程触れたいと思います。そしてモアは修道院にて、僧の道に進むか悩む事になりますが、結局修道僧にはなりませんでした。修道院のあまりに厳しい生活が、楽しみをもとめる気質であるモアに会わなかった、とも、修道院の腐敗した部分を見てしまったから…ともいわれます。エラスムスの言葉によると、モアが僧の道に入るのをためらったのは女性を求める欲望に打ち勝てなかったため、汚れた僧であるよりも純潔な亭主であるのを願ったため・…との事です。
モアが27歳の時最初の結婚をジェインとします。彼女はまだ17歳の少女で純粋な田舎娘であったそうです。モアは法律家として名をはせる事になります。彼が弁護士として暮らしていた時、相談に来るすべての人に自分の利益よりもこれらの人々の利益本位に親切で正しい教示をあたえ、その人達に金がかからないようにしてやった。その忠告がダメな場合も訴訟が安上がりにすむ方法を教えてやり、多くの人に当然もらうべき訴訟費用を無料にしてやったといいます。モアは最も人気のある市民であったと言われています。
モアは下院議員に選ばれ、国王ヘンリ7世を弾劾しています。王女マーガレットの成婚と王子アーサーの騎士成人式にちなむ貢納課税法案に反対したからです。「まだ髭も生えていないような青二才の議員が陛下の計画をつぶしてしまった」と、国王から目をつけられてしまいます。しかし他の議員の目を考えて国王の復讐はモア自身ではなくモアの父、ジョンモアへとむけられます。ジョンモアは言い掛かりをつけられロンドン塔へと幽閉され100ポンドの科料を支払わされる事になってしまったのです。
ヘンリ7世が死去し、ヘンリ8世の時代となります。
モアはその後どんどん自分の地位を確実なものへとしていきます。またヘンリ8世はモアに絶大の信頼をおいており、ひどく傾倒していつも側から反さないと言った風でした。真面目な事柄が問題になるとモアほど豊かな経験を生かして上手に処理する人はいなく、王が軽い雑談で気晴らししたい時もモアはこの上ない王の話し相手でもあったそうです。しかしウルジーの失脚の後を継ぎ俗人として初めて完了最高職である大法官の職についたモアを断頭台へと送ったのはヘンリ8世その人だったのです。
ではモアがどう言う人物であったのかを見ていきたいと思います。
モアは数多くの、当時ヨーロッパで最も偉大な学者達と交流を持っていました。中でもデシリウスエラスムスとは年は離れているものの無二の親友でありました。このエラスムスとモアとは実は恋仲であったというような説が現在あるくらいです。そのエラスムスはモアのひとなりをこのように述べています。
「彼はあまり大柄の男では有りませんが目だって小さいとも言えません。体の皮膚は白く、顔は白く輝いて柔らかい薔薇色の微光を放っています。髪は黒みがかった褐色、髭は薄く眼は青灰色をしています」 ホルバインの書いたモアの肖像画はこれは有名ですが、これは実際のモアよりもホルバインに似ているといわれています。ホルバインの書く肖像画は本人よりも彼に似てしまう傾向があるらしいです。

エラスムスはモアの事をこのように書いています。
「彼の顔立ちは性格に似ていつも親しみと愛嬌のある陽気さをしめしており、我々にすぐにも微笑みかけようとしています。彼は冗談を好みます。僕がモアと知り合った時、彼は23歳を越していたし。今40歳をすぎているのだけど、青少年の頃はなかなか可愛かったであろう事は今の面影から想像されます。健康でほとんど病気にかかった事はありません。」
「彼の声は強くはないが弱くもなく聞き取りやすく明瞭です。ただやわらかな艶と味がありません。おんがくはどんなしゅるいのものでもだいすきだけれども、歌う方には素質があまりないようです。彼の言葉は明瞭でせかせかもぐずぐずもしない。彼は質素を好みますから必要でなければ絹衣や金鎖をつけたりしません。彼は徹底的に暴君を嫌い人間の平等を好んでいます。」
「モアは下戸で酒はほとんど飲めません。親譲りであるようです。しかし楽しい集まりで座をしらけさせないためにも酒を飲むようなふりをして友人の前でつくろったのです。英国人は酒を飲む時互いの健康を祈って献杯をかさねる習慣があったのですがそういう場合はちびちびと酒を飲んだのでした。普通ご馳走と考えられた食事よりもモアは牛肉、塩漬け魚、強く発酵させた粗パンを好みます。しかし牛乳いリプディングや果物は喜んで食べますし、卵は目がないくらいの好物です。」
「モアは悠悠自適しましたが、仕事の上で必要とあれば事業に熱中してがんばりました。また彼は生まれつき人に親しむ性格で、友情というものにきわめて誠実であります。人が大好きであまりせせこましい条件を言わない。交際の仕方は寛大でありむら気なお天気屋ではありません。この人は信頼できる、自分野気にあっている人との交際は何者にも変えられないモアの楽しみであるようです。彼は人と交際している時にいきいきとし、楽しいのです。彼の力で気をはればれさせてやれないような人間はいないし、彼の力で毒消しできないような人間もいません。彼ほど親しみやすく、人好きのよい人はいないと僕は思っています。」
「彼はボール、サイコロ、カルタ遊びなどは大嫌いです。彼の趣味のひとつは動物の生態、その心理活動と感情の変化を観察する事です。彼の家には鳥や珍しい生き物、猿、狐、いたちなどがいっぱいいます。」

「青年時代の彼はけして女嫌いと言うわけではなかったが悪い評判を立てられた事はありませんでした。彼はこちらから求愛に努力しなくてはならない相手ではなく、こちらに近づいてくる女性との交際を楽しみました。彼の考えでは男女が精心的啓発によって結合しないのならば性的交際は魅力のない者でした。」
「彼の精神は当意即妙でありこれから先の事を予見し記憶力もよい。万事を上手く整頓し始末している。論争に関しても彼ほど巧みなものはいない。頭脳明晰の人、ジョンコレットもこの島国には素晴らしい連中が大勢いるね。実に見事なものだ。だが英国の所有する唯一の天才はモアだけだよ」とよく言っていました。彼は真実の信仰心を得ようと心がけ、形式的なものではなく心をこめて神に祈りをささげました。世の中にはよきキリスト教徒は修道院の中にだけだと思っている人々がいますけれども」
このようにエラスムスはモアについて述べています。少しですがモアの人物像を除けたような気がしました。歴史的人物の素顔、というかんじがしました。
それではエラスムスとモアについて説明したいと思います。モアの人生にエラスムスは欠かせない人でありました。エラスムスを簡単に説明すると、彼はロッテルダム生まれのキリスト教人文主義の代表的学者で愚神礼賛や対話集の作者であります。彼とモアの出会いはモアが23歳エラスムスが30歳の頃でありました。お互い知らなかった二人は市長のパーティーで出会いお互いの機知に心を強く打たれ「あなたはモア?それとも人間ではない?」と言うと「ではあなたはエラスムス?でなければ神?」と言い合ったと言われています。二人は年の差はあったけれどお互いを認め合う親友でありました。エラスムスはモアを「誰よりも親切な人物。私を心から愛してくれる人物であると確信しています。」と言っています。エラスムスはよくモアの家に滞在していましたし、文通も親密に行ってしました。エラスムスにとってモアは本当に大切な存在であったようです。
それでは二人の作品―――愚神礼賛とユートピアの相似性について考えてみたいと思います。この二つの作品はほとんど同じ内容の物を異なった構想の元に発表させたものと言っていいかもしれません。エラスムスの愚神礼賛は当時のヨーロッパ社会の各階層の人間をその冷徹な目で眺め、人間がいかに狂喜や痴愚によって動かされやすいか、その結果いかに愚劣な不幸の中へでも平然と飛び込んで行くかを「痴愚神」の自慢話と言う形で書き上げ、痛烈な人間批判を行うと言った内容であります。
一方ユートピアは、現実のイギリス国家、社会に見られる欠陥や悪弊を裏返しにした理想国家・社会を空想してこれを書き上げると言った内容になっています。
つまりエラスムスの風刺は直接的でモアのそれは間接的であると言えるかもしれません。
さて二人の関係に話を戻しますが二人は世を去るまでお互い深い友情で結ばれていました。エラスムスは「ユートピア」よい理解者、推奨者であり、モアは「愚神礼賛」のまたとない擁護者でありました。

愚神礼賛の最初は"ロッテルダムのエラスムスより其の親しき友トマスモアに捧ぐ"と始まっています。
―――親愛なるモアよ、目の前にあなたがおらなければおらないなりに前にいつもあなたの側にいたのが楽しかったのと同じく、いないあなたの事を思い出すのが私には楽しかった。私の生涯であの時より楽しかった事があろうとは誓って申し上げますが考えられもしません。――――
愚神礼賛の題はMoriae Encomium ですが、この痴愚神MoriaeはMoreにかけており、モア礼賛の意味もこめられているようです。そして其の最後に"ではごきげんよう、世にも優れた弁論の士モアよ!あなたの愚神を力いっぱい弁護して下さい!"で終っています。その通り、この本に対する、とくに旧教会の一部の人々に多かった狭量な無理解を戒め、誰よりもエラスムスを弁護したのはモアでありました。モアは"エラスムスの労作はすべての人々にとって価値を持つものである。真実と学問への愛情を人々の心に注ぎ込み、完全に自己を他人への奉仕にささげ、自己のためにはこの現世におけるどのような個人的賞賛は期待していないのである"と述べています。そしてエラスムスを非難する無学な神学者や修道僧に対して「神がよしとするのは、君たちがじっとうずくまっている事よりもエラスムスが旅行する事であり、君達が沈黙する事よりもエラスムスが話す事であり、君達が祈ることよりもエラスムスが沈黙する事、君達が精進する事よりもエラスムスが精進を破る事を、君達が目覚めている事よりもエラスムスが眠っていることを良しとされるのである。換言すれば、神ご自身は君達が自身のすべての生活様式で大いに称揚していることよりも君達がエラスムスにおいて軽蔑している事の全てをよしとされるのである」と断言しているのです。またユートピアを各国に推奨したのはエラスムスでありました。モアが大逆罪に問われ、斬首になるときも八方手を尽くし除名運動を行ったのもエラスムスでありました。さてしかしこの二人の関係もルターが公然と旧教会に挑戦し始め宗教改革運動の波紋がヨーロッパに広がると一時冷却したと伝えられています。モアが宮中に出仕する身となりその誠実な人柄を評価され大法官の重職に就く事になりますが、この時期から二人の文通がとだえがちになります。
しかしこれはモアが激職のため十分な余暇がなかったから――もしくは自分の書簡がエラスムスに渡る前に開封され悪用されるのを恐れたため、とも言われます。
また宗教改革における二人の意見の若干異なるところがあったことが二人の友情に影を投げたと言う切もあります。モアは旧教会およびにローマ教皇の権威に絶対服従、「異端」に対し厳しい意見を取っていたし、つまり自己の信念にいきるためには王命を抗って大逆罪に問われる事さえ甘受したのであります。
エラスムスは始終教会に属していたものの、新教徒が攻撃の対象とした。旧教会制度その他教会の老化腐敗を同じく攻撃しそのためエラスムスはルターから度々協力を求められていたし、旧教会の狭量な人々から異端視される場合が多かったようです。
しかしモアが大法官を辞任すると二人の文通は昔のように戻ったそうです。


では次にユートピア、その時代、評価を見ていきたいと思います。
ユートピアが書かれた時代のイギリス、その背景はどのようなものであったのでしょうか?
モアの時代は資本主義と封建主義の両方の性格を持ち合わせた時代であり、ルネサンスと宗教改革の二つの思潮が中世的な思潮とぶつかった時代といっていいかもしれません。
そしてユートピアに出てくる有名な言葉、「羊が人間を食う」。エンクロージャーによりイギリスは深刻な問題を抱えていました。エンクロージャーとはイギリスが毛織物輸出国として成長していく過程において商品として羊毛生産を目的とし、領主及び富農たちの暴力的な土地収奪、牧場化された囲い込み地がごくわずかな労働しか必要としなかった事もあり、貧農の離村、浮浪者化を引き起こし深刻な社会問題を産みました。農場を追われたものは餓死するか泥棒するかしかなく、そして窃盗罪に問われたものの処罰は死刑、ヘンリ8世の治世だけでも窃盗罪によって死刑になったものは約一万二千人にも及んでいました。

それではユートピアの内容について説明したいと思います。ユートピアとはギリシア語でυoτoπoσで、not place どこにもない場所というモアが作った造語です。第1巻と2巻にわかれており、モアがアントワープでピーターヒレス(彼はエラスムスの弟子)と知り合い、ヒレスがラファエルヒスロディをモアに紹介します。ヒスロディはアメリゴヴェスプッチの世界探検に参加し、途中で一行とわかれユートピア国を見つけ、その国の生活習慣や文化などについて語る…と言った内容であります。

このヒスロディとはギリシア語で、ヒュロス(馬鹿話)ダイオス(物知り、敵にとって恐ろしいをあわせた言葉で、専制君主には恐ろしい馬鹿話をする人、もしくはおしゃべりを意味する造語です。彼がユートピアの話、社会批判をするけどしょせんヒスロディ=おしゃべりの言う事だからあまり気にしないで欲しいと、予防線を張ったと考えていいと思います。
第1巻ではヒスロディがそれほど広い知識と優れた見解を持っているのになぜ国王に仕えて国民の幸福を図る事をしないのかというヒレスの質問をきっかけとしてヒスロディがヨーロッパ、とくにイギリスの政治の現状を批判します。「君主やその高官は領土と財産の増大を目指して狂奔しているのだからたとえば「民衆は自分達のために国王を選んだのであって、国王のために国王を選んだのではない」とか「国王は自分の富よりも国民の富の増大に心をかけるべきだ」という忠告は受け入れられず「財産の私有が認められ、貨幣が万能の力を持っているところでは国家の正しい繁栄と統治は不可能だ」とヒスロディは述べます。またヒスロディの口を借りて絶対王政の批判をし、エンクロージャーと私有財産獲得欲を批判し、資本主義営利活動の典型として非難するのです。
第2巻ではユートピアの社会制度、暮らし方、その他について書かれています。ではユートピアがどんな国なのか説明したいと思います。
ところでこのユートピアと言う国は共産主義の国です。実際マルクスによって資本の本の源泉蓄積に関する重要な史的を含むものとして引用されていますし、カウツキ―がが社会主義の先駆者的な著作としてこれを研究しています。
モアはカトリックの殉教者として知られていますが、一方社会主義者としての顔も持っていたのです。

ではユートピアという国について、説明したいと思います。
■ユートピアの地形と町
ユートピアの島はその中央部で200マイルにわたり、両端に向かうにつれて少しずつ狭くなって行きます。両端は500マイルにわたる円を書いたようになっており、この島全体を新月のような形にしている。その新月の両端の間に海が流れ込んで約11マイルの海峡で両岸を隔てています。この海は中で大きく広がり四方を陸地で囲まれているため静かな湖のようです。港の入り口は岩礁で危険になっており、水路はユートピア人にしかわからないようになっています。
このように自然で防衛された地形になっていて外敵が簡単に攻め入って来れないようになっています。
この島には54の都市があり、そのいずれも大きく立派で、言語、生活様式、制度、法をおなじくしています。
街路も非常にうまくできており、家屋も美しくずっと途切れず列をなしています。家々には庭園が開けており、きれいです。庭作りは市民にとって有用で楽しいものです。家には誰でも入れるようになっており、そのため特に自分のものだと隠すものはない。その上ユートピア人は10年に一回住宅そのものをくじびきで交換します。

■ユートピア人の生活
農業はユートピア人の男女1人残らず熱心に行う仕事であります。若い時から学校や実習で教えられます。すべての人は農業をやりますがそのほか例外なくひとつの手工業を習います。たいていの場合羊毛や亜麻の加工職、左官職、鍛冶職、大工職などです。
着物は男女、そして既婚者と未婚者でちがうばかりで、全島同じ型の物です。
気持ちよく体を動かせ、寒さにも熱さにも都合よく出来ています。こういう着物はどの家族も自分で作ります。この服は7年間は持ちます。一着有れば2年間は持つのです。
彼らは金や銀を自然が持っている価値以上に大事にしません。鉄の方が生きて行くのによっぽど大事であると考えるのです。貴金属を私利私欲のために使われるのを防ぐため、彼らは金や銀を便器や、奴隷をつないでおくための足かせや鎖につかい、金銀に対して軽蔑されるべき位置を持たせたのです。また真珠やルビーなどの宝石も幼児のおもちゃとして与えました。子供はそれを喜んで持っていますが、大人になるとこれは子供のおもちゃだと、捨ててしまうのです。
以前ユートピア人のこういった習性を知らずに来た外交使節は、金銀や宝石で着飾った着物を着て、「あれはいやしいものだ」としてユートピア人に扱われ、逆に使節の一番低い身分のものが使節だと扱われてしまうありさまでありました。
ユートピアにはただ遊んでいるものはひとりもいません。すべての人が一日のうち6時間だけ働きます。午前中の3時間働き、食事。食後2時間の休憩、それより3時間労働をし、それがすむと晩御飯。8時には就寝し、睡眠は8時間あてます。
6時間働いて物資が不足するのではないか?と思う人もいるかもしれませんが、この島では前に述べたように全島民が働いています。よその国々では、人口の半分を形成している女が遊んでおり、僧侶たち。すべての金持ち――ジェントリやロードと呼ばれる地主。徒党を組んだ無法者、健康で労働能力のある乞食達―――つまり本当に働いている人は思っているよりずっと少ないのです。

労働をしなくてもいいのは全島で約500人に足りません。族長と(といっても労働の模範をみせるため働いているのですが)僧侶の推薦や族長連によって非公開選挙で選ばれた、研究に専念するように国民に許された人です。期待にそぐわなければ手工業の仲間に戻されますが、逆に自分の自由時間に熱心に学究し、非常によい成績を上げると学者仲間にうつることができます。
昼と夜は皆で会館で食事をします。自宅で食事する事は行儀悪い事とされています。すぐ側の会館にご馳走があるというのに苦労して食事を作るのはばかげていると考えられます。夕食の時間は昼に比べてずっと長くかかります。夕食時にはいつも音楽があり、デザートを食べ、よい香りの樹脂をたき、香油や香水をまきます。彼らは害にさえならなければどんな快楽もよろしいとしんじております。

結婚は女は18歳、男は22歳になってから認められます。男女問わず、結婚前に情欲の虜となったものは重い刑罰が下され、結婚は禁止されます。
そのため、結婚前にはある儀式を行います。それはお互いの裸体を見せ合うという手続きです。我々がそれをいやらしい、と馬鹿にする事をユートピア人は不思議がるのです。「例えば馬を買う時、あなたは馬の鞍や馬具をとりのけて其の下に腫れ物がないか調べる。それと同じように、着物で隠されてしまっている欠点を結婚後に見つけても我慢して運命に従うしかない事になってしまうから道理にかなっていると考えるのです。
離婚は姦通、または夫妻の一方が我慢できない悪い行状があった時に限られます。何人も妻が病気になったから、とか体に欠陥が出来たからと言う理由で追い出す事は出来ません。夫婦の間がうまく行かず、別の相手を見つけ、その人ともっと幸福に暮らしたいという場合、お互いの同意によって離婚しますが、元老院議員の許可がなくてはなりません。しかし彼らはそう簡単に許可しません。簡単に離婚しやすいと言う事は夫婦の合性を固めていく手段とは思われないからです。
僧侶は最も優れた性質を持つ女性と結婚します。女だからといって僧侶になれないこともありません。
モアはこの章で結婚前の純潔を男女両性にもとめ、禁止しています。女性にも僧職につけるし、彼は男女平等を願っていた事がうかがえます。また重病人に対して安楽死も認められています。僧職の独身制も廃止しています。これらの事は当時のキリスト社会の考えの中で大変近代的で革命的であったと言えます。

■政治、宗教、戦争
30家族毎に毎年1人の役人が選ばれ、君主も秘密投票で選出します。君主の地位は彼が独裁を狙っているという嫌疑をうけないかぎり終身です。役人達は寛大でもなく厳しくもないためユートピア人は平和な共同生活を送っています。
彼らは戦争を野獣の行為だと言って嫌悪します。戦争で得た栄誉を不名誉なものだと考えます。しかしながら彼らは自国、または友好国を不当な侵害から守るため、あるいは被圧迫民族を暴君の圧政から解放するため、以外の目的では決して戦争を企てません。
ユートピアでは普通朝早く公開講義があります。出席を義務付けられているのは学業に専従するものですが、それ以外の男女も多くがこの講義に出席しています。人民の大部分は男でも女でも生きている限り自由時間を学問研究のために使っているのです。
宗教は各地方や、各町によって色々なものがあります。太陽を、月を、崇拝するもの。過去の時代の説くと名誉に秀でた人を神として崇拝するもの等様々です。賢明なユートピア人は究明できない、永遠の力、神的なるものの存在を信じており、万物の父と呼んでいます。宗教による戦争を経験したこの国の創健社であるユートパス王は人が自分の信仰を暴力的に強制するのは愚かな事だと思い、全ての人に好きな宗教を信奉する完全な自由を与えました。
ただし精神は肉体が滅びると死滅するとかこの世の万物は偶然に支配され、神意に導かれているものではないと言った考えには例外で、このような考えのものは栄誉ある地位には絶対に就けません。

■奴隷と侵略戦争
ユートピアの中で、奴隷と侵略戦争は認められています。また国民議会以外で公共の事柄について決議する事は死刑を持って禁止させられています。
奴隷はユートピア人で、犯罪を犯したものがもっとも悪い奴隷となります。このような素晴らしい国に生まれ教育を受けたのに悪行をするのはもっとも憎むべきとされたからです。彼らは奴隷の子供を奴隷にする事はしません。または外国で死刑の判決を受けたもの。そして外国で強制労働に苦しめられ、自らユートピアの奴隷を希望したものです。これらの人々にはほとんど自国市民のような待遇をうけます。また罪を犯してなった奴隷が、労苦にうちひしがれ非常に後悔し、その刑罰より犯した悪行を悲しむ事を人々から認められると強制労働は緩和させられるか、免除されます。
ユートピア人は人口が過剰になると、隣接大陸の中で土着民がたくさんの土地を荒れたままにしている地方に移住させ、そこにユートピアの法律に即した植民地を建設します。それらに抗う土着民に対してはユートピア人は武器に訴えます。ある民族が土地を荒廃させ役にたたないものにしておくのを自然法則的に必要としている他の人々がこの土地を占領し開拓して行く事をいけないとして妨害するならば、そのことで戦争を起こすのはまったく正しいと考えるのです。

さてモアはユートピアの最後にこのように書いています。"私はユートピアに関してヒスロディが語った全ての事に一つ残らず同意する事は私にはどうしてもできない。私が認めるのはユートピア社会には我々の社会においてもそうある事を期待したいというよりも希望したいようなものがたくさんあると言う事である。"これは、予防線を張ったものであるとも言えるし、また、これらユートピアの制度をイギリスに持ち込む事が不可能な事であるとのモアの嘆きであるとも言えるかもしれません。

それではユートピアについて、最後に諸外国の評価と、日本での評価を見てみたいと思います。
さて、ユートピアはラテン語で書かれています。これはなぜかと言うと、モアが社会の改革には世の指導者達が賢者になることが第一条件だと考えており、広くキリスト教世界の指導者達に改革を呼び求めるためには彼らのわかる言語、ラテン語で書かなくてはならなかったのです。今日と違い英語はイギリス以外では理解されなかったのです。ラテン語で学者に対し訴えたユートピアは、民衆に対して…といった書物では有りませんでした。
さてユートピアは明治15年に良政府談、27年に理想的国家と題され出版されています。明治時代初期の自由民権運動に呼びかけるものがあったのか、またアングロサクソンの文化の輸入が当時優勢になってきたから…とも言えるかもしれませんが、日本では比較的早い時期に受け入れられたようです。さて、では16世紀のヨーロッパではどうだったかというと、初版のラテン文はヨーロッパの各地で好評を得たものの、同世紀中には13回印刷されたにすぎず、モアの生前にイギリスでは一度も出版されませんでした。外国語訳としては1524年に独訳が出たのが最初で、モアの死後16年経った1551年にやっと英訳が発表されたのでした。


それでは最後にモアの晩年とその最後を見てみたいと思います。

モアは義理の息子であるローパーにこういっています。
「モし三つの事がキリスト教社会で確立されるなら私は今すぐ袋に詰められてテムズ川に投げ込まれても悔いはないよ。第一は戦争のない普遍的な平和を、第2はキリスト教の完全な宗教統一。第3は王の離婚問題が解決する事だよ」

ヘンリー8世はキャサリンアラゴンとの離婚の根本的な論拠として、最初死んだ兄アーサーの妻に予定されていた者と自分との結婚の不自然を理由としてあげました。
法王は彼の離婚を認めませんでした。
モアは「健康状態の不良」を理由に大法官を辞職しました。その理由が本当でない事は明らかでした。ヘンリ8世は大法官の全権を返上したモアに容赦なく弾圧の雨を降らしました。
モアは国家反逆罪により刑事訴訟を起されました。モアの犯罪はアンブ―リンと結婚すると王は死ぬと予言した修道女エリザベスバートンをモアが支持した…というものでした。モアはこのことを断固としてはねつけ、告発は結局撤回されます。娘マーガレットがこの「無罪放免」を喜んだのに対しモアは「問題が持ち越された事は取り消しを意味しないのだよ」と悲しげに言ったそうです。
1533年、キャサリン王妃欠席のままヘンリ8世と彼女の結婚が無効であると、そしてその宣誓の5日後、アンブ―リンとの結婚式が行われた。モアはこの式への参列を断りました。

相続法、王位継承法など新しい法案がだされ、その内容は文書、印刷物、その他何らかの行為により王に危険にさらしたもの、および国王に対し謀反を起したり王妃アンと王位継承者の名誉を毀損したものは国家反逆罪になるといったものもありました。また宣誓では、ヘンリ8世のかつての妃キャサリンとの結婚が法的に無効になったことを承認し、アンブ―リンとの新しい結婚生活の合法性を認める事を要求しており、更に英国王の結婚問題における法王の権威と権限を拒絶するものでありました。また、外国のあらゆる君主の権力を否認しているのと全く同様に法王の権力を否認する思想も含んでいました。国王が唯一の元首であることが強調されていたのです。

モアは新しい王妃とその子供の相続権に関する「相続に関する法案」には喜んで宣誓するが、私の魂を永遠の滅びに陥れる事なしには提示された宣誓書を受け入れる事は出来ないと述べました。モアは「外国全ての権力あるいは君主」と同様に法王の権威を排斥していると言う点に対する反対で、モア自身は自分が宣誓を拒否している原因についてどのようなものであれ説明する事を断りました。自分個人としての良心と信念が自分に同様に振る舞う事を許さないのであるということだけ述べました。
1534年4月17日、モアは再び委員会に召集されたものの宣誓を拒否したためロンドン塔へと送られる事になったのです。モアは15ヶ月に渡り裁判もなしにロンドン塔にいることになります。しかし裁判なしの監禁は当時のチューダー朝では珍しくなかったようです。なぜなら宣誓を拒否した人物は国事犯と見なされていたからです。
モアの監禁は世論に影響を及ぼそうとする措置であると考えられています。ロンドン塔に一定期間監禁すれば宣誓をするかもしれないと考えたのです。ロンドン塔ではしかし最初のうちは妻アリスや娘マーガレットローパーの訪問を受けたり本や文房具の所有も許されていましたし、監禁中にもかかわらず個人的な召使いまでもいたといいます。
その後最高首長法が出され、反逆に対する法律も発布されました。モアの死刑の危機はモアが宣誓を拒否しつづける限り確実なものへと変わって行ったのです。
モアと同じように宣誓を拒否していたモアの友人ジョンフィッシャーが先に断頭台へと送られました。彼は最後「私が死の恐怖に対してもカトリック信仰のいかなる点においても弱気になることのないように皆さんのお祈りで私をお助けください」と言ったそうです。彼の遺体は処刑後裸にされ埋葬の命令が届くまで終日放置され、首はロンドン橋へとおかれました。
モアの妻アリスや、とりわけ彼のお気に入りの娘マーガレットは何度もモアに宣誓をするよう説得を心がけました。しかしモアは「マーガレットよ、私はあなたの意見に従う事は出来ないのです。どうかこのような心遣いはもうしないで、私の以前の解答で満足して欲しいのです。あなた達が悲しむ事は自分の死について知らされるよりも大きな死の悲しみです。ですがこの不幸を遠ざけることが私の力の及ばぬ事である以上、私はもはや神に祈る事しかできないのです。」と言ったのです。
その後マーガレットが塔でモアと面会している時に、同じく首長令に反対したために死刑となるカトルジオ会修道僧が刑場へと行進していくのを見ました。彼らは拷問処刑を執行される運命でした。絞首により半殺しにされたあと、まだ生きているうちに内臓をひきだされるという大変残酷なものでした。彼らは仲間が殺されて行くのを見つめながら順番に処刑を待つのです。この恐ろしい光景をみればモアとて改心するかもしれないし、マーガレットもさらに必死に宣誓への説得をするだろうと面会の日時をしていされたのである。
しかしモアはその光景をみてこういいました。「ごらんよ、メッグ。あの祝福された神父達はまるで結婚式に行く新郎のように明るい顔をしているよ。メッグよ、神はひたすら苦しい懺悔や苦行の生活を敬虔に送った彼らをもはや不幸と邪悪の責め苦にいつまでも置かれることのないように、現世から連れて行かれるのだ。この愚かな父はあさましい卑劣な人間のように、永遠の至福に至るにはまだ早いと考えられてか、私をこの世に留めさらに不幸に押しつぶされ悩ませるようにしたもうわけだ。」
モアは考えを変える事をせず――死刑が執行される事になりました。

15ヶ月のロンドン塔での監禁生活は、モアの外見をまるで別人のように変えました。彼はやせこけ、よろよろと老人のように歩きました。
マーガレットは父との別れに、父のために祈ってから、槍を持っているモアの周りの大勢の護衛の真っ只中を見境も忘れたように走って行き、皆の前で公然と抱きしめ、その首に抱きつき口付けをしました。マーガレットは話す事も出来ず、モアは最後に「マーガレットよ、こらえなさい。心配なさるな。神の御意志なのだ、ついにあなたは私の心の秘密を知ってしまった。」そして私の魂のため祈ってほしいといったそうです。
モアの処刑は本来は拷問処刑である予定でした。しかし国王の慈悲により、斬首刑へと変更されました。燈台に登るとモアは執行人に「君、元気を出して恐れずに務めを果たすのです。私の首は短いから、はね損ねないように、君の面目をかけても気を付けてくださいね。」と言ったといいます。
そして 最後にモアは傍観者達に向けて最後の言葉を残しました。「私のために祈ってください。そして自分が聖なるカトリック教会の信仰を抱いて、またそのために死ぬ事の証人となってください。私はあなた達のために祈ります。そして神が王によき助言者を与えられん事を王のために祈ってください。私は国王の、しかし第1に神の僕として死に就きます」

中世の最後の人、そして近世の最初の人といわれるモアは、1535年7月6日、その生涯を終えたのです。

トマスモアの事を調べて、彼が社会主義者だとは私は今まで知らず、ユートピアも名前だけ、知識だけでしか知りませんでした。だから詳しく調べてみて、モアが描いていた理想郷、そして彼の人生など、いままで私が思っていた単なるカトリックの殉教者としてのモア以外の顔を見れた気がしました。
またユートピアの中の非近代的な面にも驚かされました。


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